تسجيل الدخول廊下の向こうで、凌臣の足が止まった。
玲はその瞬間、自分の身体から何かが漏れたのだと悟った。燈城会本邸の午後は来客も多く、廊下には組員が数人行き交っている。誰も振り返らない。傍を通った若い組員も、資料を抱えた事務方も、何の異変も感じていない顔をしていた。それなのに20メートル近く離れた場所にいた凌臣だけが、煙草を口元へ運びかけた姿勢のまま動きを止めている。
玲は腕時計へ視線を落とした。予定日まではまだ2日ある。今朝も高濃度の抑制薬を服用し、昼には追加の遮断剤も使った。熱もない。手の震えもない。心拍も普段とほとんど変わらない。それでも、身体の内側には数時間前から微かな重さがあり、薬で押し込めたはずのΩ特有の感覚が薄い膜の向こうで蠢いていた。
「澪」
低い声が廊下を渡った。
「はい、組長」
玲はすぐに顔を上げた。公の場で使う声と表情を崩さない。凌臣は周囲へ何も説明せず、指に挟んだ煙草を灰皿へ押しつけると、顎だけで奥の部屋を示した。
「来い」
「承知しました」
玲が歩き出すと、組員たちは誰も不思議そうな顔をしなかった。組長が澪を呼びつけることなど日常の一部だ。だが玲にとって、その数歩は妙に長く感じられた。凌臣へ近づくほど、ほとんど消していたはずの匂いが鮮明になる。焦がした檜、血を思わせる乾いた鉄、熱を持った樹脂。4年前から変わらない、玲の神経を理屈ごと乱すαの匂いだった。
最初にそれを嗅いだ日のことを、玲は今でも細部まで覚えている。
4年前、まだ《玻名城澪》という名前が燈城会の誰にも馴染んでいなかった頃、玲は本邸ではなく都内の会員制ホテルへ呼ばれていた。警察庁が何年もかけて作った身分は既に完成していた。大学で研究と講義を続ける若い学術畑の男。資産管理と数字に強く、裏社会との接点は薄いが、ある企業の粉飾を見抜いたことで燈城会側の関係者へ接触したという筋書き。戸籍も学歴も納税記録も研究実績も、調べられる限り破綻しないよう積み上げてある。
それでも、絹笠凌臣本人の前へ立つ瞬間だけは別だった。日本最大の極道組織を率いる男は、部下から上がった書類だけで人を信用するほど甘くない。玲はホテルの個室へ案内されるまでに、廊下の防犯カメラ4台、非常口2か所、警備役と思われる男7人の配置を記憶していた。もし身元を疑われ、その場で拘束された場合に使える脱出経路も3つ考えていた。
扉が開く。
まず見えたのは、大きすぎる肩だった。黒いスーツの背中だけで、部屋の空気が重く見える。193cm、100kg。事前資料で何度も見た数字だったが、実物の圧迫感は写真からでは分からない。絹笠凌臣は窓際のソファへ座り、片手に煙草を持ったまま玲を見ようともしなかった。
「玻名城澪です」
玲は用意してきた声で名乗った。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
凌臣がゆっくり顔を上げる。その瞬間だった。
匂いがした。
煙草でも、ホテルの香料でもない。焦がした檜のような乾いた香りが最初に来て、その奥へ鉄と樹脂の熱が重なる。嗅いだことがないのに、玲の身体だけは知っていた。背骨の内側を冷たいものが一気に走り、呼吸が浅くなる。抑制薬を飲んでいるはずなのに、項の皮膚が熱を持ち、腹の奥が強く収縮した。
頭では理解を拒んだ。
あり得ない。
潜入対象だ。極道の組長だ。しかも玲が長年追ってきた燈城会の頂点に立つ一族の男である。相手の経歴も犯罪歴も、家族関係も知っている。こんな人間へ身体が反応する理由など、任務上あってはならない。
それでも、本能は一切の説明を必要としなかった。
運命の番。
言葉が浮かんだというより、身体の方から答えを押しつけられた感覚だった。玲は奥歯を噛み、指先へ力が入らないよう意識した。ここで視線を逸らせば不審に思われる。心拍を落とし、呼吸を一定へ戻し、表情筋を動かさない。警察官として身につけた訓練を総動員して、玻名城澪の顔を維持する。
だが凌臣もまた、同じ瞬間に動きを止めていた。
煙草を挟んだ指が口元の手前で止まり、黒に近い焦茶の瞳が玲を真正面から捉える。それまで値踏みする対象程度にしか見ていなかったはずの目が、初めて焦点を結んだように鋭くなる。数秒間、室内から時計の音以外が消えた。凌臣の鼻翼が僅かに動いたのを、玲は見逃さなかった。
「……Ωか」
最初に出た言葉がそれだった。
「はい」
「匂い消してやがるな」
「仕事上、不要ですので」
玲がそう答えると、凌臣は煙草を灰皿へ押しつけた。立ち上がっただけで視界が大きく塞がれる。20cmの身長差以上に、骨格と重量の違いが近距離では露骨だった。玲は後退しなかったが、身体の方は相手が1歩近づくたび勝手に緊張を解こうとする。
凌臣は玲の目の前で止まり、顔を覗き込むように顎を下げた。
「お前、分かってんのか」
何を、と聞く必要はなかった。
「何のことでしょう」
「白々しいな」
「初対面の相手に分かったような顔をする趣味がありませんので」
凌臣の眉が僅かに動いた。怒るかと思ったが、むしろ口元へ薄い笑みが浮かんだ。その目だけは笑っていない。
「面白ぇ」
玲にとっては、少しも面白くなかった。
運命の番という概念は、医学的にも社会制度上も存在する。相性の極端に高いαとΩが出会った際、フェロモン受容が通常とは比較にならないほど強く結びつき、接触や匂いだけで互いの自律神経へ影響する。番契約を結べば発情期の症状が軽減し、精神的な安定も得やすい。一方で、相手を失った時の反動も大きく、永続的な結びつきを前提とする関係だった。
だからこそ、潜入捜査官が捜査対象と結ぶ選択肢など最初から存在しない。
玲はそう整理した。相手が誰であろうと同じだ。身体が勝手に反応したからといって、自分の判断まで明け渡す必要はない。むしろこの反応を利用できるなら利用すればいい。凌臣側にも同じ反応があるなら、近づくための材料になる。
その場でそう結論づけた自分を、4年後の玲は時々、随分と性格が悪いと思う。
「何笑ってんだ」
低い声で現在へ引き戻された。
玲は奥の小部屋へ入ったところだった。扉が閉まると同時に、凌臣の手が鍵を掛ける。人目がなくなったことで、玲は公の仮面を少しだけ外した。
「笑ってませんよ」
「口元が動いてた」
「4年前のこと思い出してただけです」
「俺と会った時か」
玲は答えず、代わりにジャケットの内ポケットから薬のケースを取り出した。今日飲んだ分を確認する。残数に間違いはない。製造番号も自分が管理しているものと一致している。
凌臣はそれを見て眉を寄せた。
「薬切れてんだろ」
「切れてません」
「じゃあ何で匂う」
「予定日が少しずれただけでしょう。組の連中は誰も気づいてません」
「俺には分かる」
その一言に、玲の指が止まった。
分かる。そうなのだ。抑制薬で消しても、遮断剤で皮膚から出る量を抑えても、凌臣だけは気づく。玲自身も同じだった。凌臣が廊下の反対側にいても、機嫌が悪くフェロモンが僅かに強くなれば分かる。別のαが同じことをしても気にも留めないのに、この男の匂いだけは意識へ割り込んでくる。
玲のフェロモンは、普段ほとんど外へ出ない。だが今は薬で押さえ切れなかった甘さが、皮膚の近くに薄く漂っていた。雨に濡れた白檀、冷えた白桃、月下香。本人には自分の匂いなど不快なだけだが、凌臣の視線が項へ落ちたことで、そこから漏れているのだと分かる。
「追加で飲みます」
玲が薬を取り出そうとすると、凌臣の手が先に伸び、ケースごと取り上げた。
「今日はもう飲んでんだろ」
「昼に1回だけです」
「朝も飲んだ」
「規定範囲です」
「お前の規定は信用ならねぇ」
「返してください」
玲が手を伸ばしても、193cmの男が腕を上げれば届かない。子ども扱いされているようで腹が立ち、玲は眉を寄せた。
「凌臣さん」
「駄目だ」
「まだ仕事残ってるんですよ」
「知るか」
「知ってください。半分くらい凌臣さんの仕事でしょう」
凌臣は薬を返さないまま、玲の肩を押してソファへ座らせた。乱暴な動作だったが、いつものように力加減だけは妙に正確だ。玲が立ち上がろうとした時、室内の空気が変わった。
焦がした檜の匂いが濃くなる。
続いて鉄と熱い樹脂。凌臣のフェロモンが、狭い部屋へゆっくり広がった。意図的だと気づいた瞬間、玲は舌打ちしそうになった。
身体が先に負けた。
肩へ入っていた力が抜け、浅かった呼吸が勝手に深くなる。腹の奥にあった鈍い疼きが少しずつ引き、熱を持っていた項の皮膚まで落ち着いていく。高濃度の薬を追加するより速い。さっきまで張り詰めていた神経が、凌臣の匂いを吸い込むたび強制的に静められていく。
玲はソファへ深く凭れ、額へ手を当てた。
「……これ嫌いなんですよね」
凌臣が正面に立ったまま見下ろす。
「何が」
「凌臣さんの匂いが薬より効くことです」
「効くならいいだろ」
「よくないです。俺の身体のくせに、俺の判断より貴方を優先してるみたいで腹立つんですよ」
凌臣は少し黙った。玲の言葉を笑うかと思ったが、そうはしなかった。煙草へ手を伸ばしかけ、匂いが混ざるのを嫌ったのか途中でやめる。
「番になりゃ、もっと楽になる」
玲の目が上がった。
それは2人とも知っている。番契約を結べば、玲の重い発情期は大幅に安定する可能性が高い。抑制薬の量も減らせるし、凌臣側の過剰な反応も落ち着く。医学的な利益だけ並べれば、結ばない理由を探す方が難しい。
だが玲はすぐに視線を逸らした。
「なりませんよ」
「分かってる」
あまりにも早い返答だった。
玲の胸の奥へ、説明しにくい小さな痛みが走る。自分から拒んだくせに、凌臣が即座に同意すると面白くない。そんな矛盾した感情を認める気はなかった。
「なら言わないでください」
「事実を言っただけだ」
「凌臣さん、運命とか大嫌いでしょう」
「嫌いだな」
凌臣の声には迷いがなかった。他人に人生を決められることを何より嫌う男だ。血筋でも、組でも、本能でも同じなのだろう。運命だから番になれと言われて従うくらいなら、身体がどれほど求めても拒絶する。その頑固さは玲にも理解できた。
「俺も無理ですしね」
「俺と番になるのが、そんなに嫌か」
その言葉に、玲の呼吸が一瞬止まったような錯覚を覚えた。嫌だから拒んでいるわけではない。むしろ問題は逆で、潜入対象へ向けるには深くなりすぎた感情を、番契約という形で固定してしまうことが怖かった。契約を結べば、任務が終わっても身体は凌臣を求め続ける。そんな未来を受け入れる資格が自分にあるとは思えなかった。
「俺にも俺の事情があります」
「その事情は俺より大事か」
低い声だった。
玲は答えに詰まった。任務なら大事だ。警察官としての人生も、両親の死の真相を追うことも、4年間積み重ねた潜入も、捨てられるものではない。それなのに、比較を求められた瞬間、即答できなかった。
凌臣はそれ以上聞かなかった。玲の返事を待つ代わりに、取り上げた薬のケースを自分のポケットへ入れる。
「今日は飲むな」
「返してくださいって」
「ここにいろ」
「仕事は?」
「朔にやらせる」
「若頭を便利屋扱いしないでください」
「俺が会長だ。俺が決める」
玲は呆れて息を吐いた。身体はもうかなり楽になっている。凌臣のフェロモンが効いている事実が、なおさら腹立たしい。
4年前、初対面の瞬間に身体が勝手に選んだ男。玲はそれを任務へ利用し、凌臣はそれを所有の理由へ置き換えた。番にはならない。運命に従わない。その結論だけは、出会った時から2人とも変えていない。
それなのに、玲が他のαへ近づけば凌臣は不機嫌になり、凌臣が自分をただの犬として扱えば玲の胸の奥には説明できない棘が残る。合理的な理由で結ばないと決めたはずなのに、その合理性を確かめるたび、どこかが少しずつ傷ついていた。
凌臣が隣へ腰を下ろす。大きな身体から流れる熱と匂いに包まれ、玲は目を閉じた。薬では得られない安堵が身体へ広がることが、どうしようもなく悔しい。
「寝ろ」
「ここで?」
「俺がいる方が楽なんだろ」
玲は目を開け、隣の男を睨んだ。
「そういう言い方するから嫌なんですよ」
「事実だ」
「本当に可愛げないですね」
「お前に言われたくねぇ」
凌臣が低く笑った。その笑い声を聞きながら、玲はもう1度目を閉じる。番にならないという結論は変わらない。変えられないはずだった。
けれど意識が沈む直前、玲の指先は無意識に凌臣のスーツの袖を掴んでいた。気づいた時には遅く、離そうとした指の上へ大きな手が重なる。凌臣は何も言わず、その手を退けもしなかった。
玲もまた、掴んだ理由を説明しなかった。
2人の間には、運命などという言葉だけでは片づけられない沈黙が残った。
敵対組織の男が息を引き取ってから、倉庫の中は妙に静かになっていた。湾岸の外れに建つ古い物流倉庫は、潮と油と錆びた鉄の匂いが混じり、天井近くを走る蛍光灯が不規則に明滅している。床には尋問に使われた椅子が倒れ、その数メートル先には灰色のシートを掛けられた遺体が横たわっていた。血はもう広がっていないが、コンクリートへ染み込んだ暗い色だけが生々しく残っている。玲はその横でしゃがみ込み、回収された携帯電話、折れたSIMカード、財布、鍵束を種類ごとに透明袋へ分けていた。死んだ男は、燈城会と対立する新興組織《玖堂連合》の構成員だと名乗っていた。数日前から燈城会内部の運搬経路が外へ漏れ、倉庫2か所が警察より先に何者かへ荒らされている。凌臣はその情報源を探すため男を捕らえたが、尋問の途中で容体が急変し、そのまま死亡した。誰かが口封じ用の薬物を事前に使っていた可能性もあり、玲は死因については勝手に決めつけず、死体と所持品を別々の情報として扱っていた。「舌噛んだとかじゃねぇんだろうな」離れたところで凌臣が低く言った。煙草を吸う速度が普段より明らかに速く、灰皿代わりの空き缶には既に数本の吸い殻が詰まっている。男が吐いた内容の中には、燈城会内部に協力者がいるという話が含まれていた。名前までは出なかったが、凌臣が知らないところで自分の組織が動かされているという事実だけで、彼の苛立ちには十分だった。「可能性は低いです。口腔内の出血量と歯列を見る限り、自傷による致死ではありません」玲は袋へ封をしながら答えた。公の場に近い状況なので一人称は出していないが、周囲にいるのは凌臣と斑鳩井朔、それに後処理を担当する数人だけだ。玲の声はいつも通り静かだった。「薬か」「まだ分かりません。吐瀉物と血液は採ってあります。持病の可能性も切れませんし、拘束前に何か摂取していた可能性もあります」凌臣は舌打ちし、近くの折り畳み机を蹴った。金属脚が床を擦り、大きな音が倉庫内へ響く。若い組員が一瞬肩を強張らせたが、玲は顔も上げなかった。凌臣が怒っている時、物が飛ぶ程度は珍しくない。今の蹴り方なら人間へ向けてはいないと判断できるため、警戒を1段階上げる必要もなかった。玲は財布の中身を確認した。運転免許証は玖堂連合が用意した偽名らしく、顔写真だけは本人と一致している。現金は8万3000円、ホテルのカードキーが1
凌臣の機嫌が悪くなった理由を、玲は前夜からほぼ把握していた。燈城会と長く付き合いのある地方組織の幹部が本邸を訪れ、帰り際、廊下ですれ違った玲へ必要以上に近づいたのだ。相手は40代のαで、酒が入っていたとはいえ足取りは確かだったから、距離感を誤ったわけではない。玲の肩へ腕を回そうとし、避けられると面白がるように笑い、今度は青墨色の髪へ指を伸ばした。「相変わらず綺麗だな、澪。絹笠のところに置いとくのが勿体ねえ」玲は触れられる直前に半歩だけ身体をずらした。相手の手を折るほどの場面ではないと判断し、表情も変えずに「お酒が過ぎていますよ」と返そうとしたところで、背後から重い足音が近づいた。振り向く必要はない。焦がした檜と煙草の匂いで誰か分かった。「何してる」凌臣の声は低く、怒鳴ってはいなかった。それでも男の手が止まり、廊下にいた組員たちまで自然に口を閉じた。凌臣は玲の背後まで来ると、男が伸ばしていた手首を掴み、ゆっくり自分の方へ引いた。「いや、冗談ですよ。減るもんじゃないでしょう」「俺のもんに勝手に触んな」「まだ触ってませんよ、組長」玲が淡々と訂正すると、凌臣が横から睨んだ。「お前は黙ってろ」「事実を申し上げただけです」相手の幹部は場を収めるように笑ったものの、凌臣は最後まで笑わなかった。取引相手でなければその場で腕の1本くらい折っていたかもしれない。玲はそう判断し、問題を広げないために相手を玄関まで送り、そのまま残りの仕事へ戻った。ただし、凌臣の不機嫌だけは夜になっても消えなかった。そして翌朝、玲が寝室へ呼ばれた時、机上に置かれた小さな黒いケースを見た瞬間、昨夜から続いていた機嫌の悪さと今日の命令が繋がった。凌臣はベッド脇のソファへ深く座り、朝から煙草を吸っている。窓は少しだけ開いていたが、部屋には煙と強いαの匂いが残っていた。玲は扉を閉め、ケースへ近づいて中を確認すると、凌臣を見た。「今日ですか」「ああ」中に入っているのは、遠隔操作で作動する小型の器具だった。過去にも似たものを使われたことがあるため、用途を聞く必要はない。問題は予定だ。「午前中、直系幹部を集めた資金会議ですよ」「知ってる」「午後は海外法人の責任者も来ます」「それも知ってる」玲は数秒、凌臣の顔を見た。男は悪びれもしなければ、説明する気もない。だから玲も遠慮なく言
賭場の時計が午前3時を回っても、卓を囲む者たちに眠気は見えなかった。照明は入場時から1度も明るさを変えず、窓のない地下区画では外が夜なのか朝なのかすら分からない。玲は革張りの椅子へ浅く腰掛け、卓上へ積まれた権利プレートと、新たに封を切られたカードを静かに眺めていた。数時間前まで300億円、さらに600億円相当を動かした勝負が続いていたにもかかわらず、空気はむしろ最初より研ぎ澄まされている。向かいのシュタイナーは、負けが込んでいる人間とは思えないほど機嫌が良かった。苛立ちを隠しているのではなく、玲という未知の相手を解析することそのものを楽しんでいるらしい。さきほどから勝負よりも玲の手元を見る時間が長く、視線は右手の指先、カードの持ち方、チップ代わりの権利証へ触れる順序を追っている。玲は気づいていたが、わざわざ教える理由もないので、何も知らない顔で右手だけを使い続けた。「今度は君が配れ」シュタイナーがそう言って、専属ディーラーへ手を上げた。ディーラーは1歩下がり、封を切ったばかりのデッキを玲の前へ置く。玲はカードケースの封印番号と縁の加工を1度だけ確認し、右手でデッキを持ち上げた。「俺がですか」「嫌なら断ってもいい」「別に構いません。ただ、不正を疑われるのは面倒ですね」「この卓は全方位から撮っている。君が細工できるなら、それも見てみたい」玲は肩を軽く竦め、リフルシャッフルを始めた。左右の束をほぼ同じ枚数へ分け、親指の圧を均等に掛けて噛み合わせ、最後にカットする。カードは一定の音を立てて卓上へ滑り、誰の前にも同じ距離で止まった。凌臣は玲の横で煙草を咥えたまま、その手元よりもシュタイナーの顔を見ている。最初の3ゲーム、玲は意図的に右手しか使わなかった。カードを配る時も、自分の手札を確認する時も、権利プレートを動かす時も右側で統一する。シュタイナーの視線が自然とそこへ寄り、カードを見るより玲の親指と人差し指の間を追う時間が増えていく。どちらが利き手なのか、強い札を持った時に指へ何か出るのか、探していることは明白だった。4ゲーム目、玲は何の前触れもなくデッキを左手へ持ち替えた。右手を卓の端へ置き、左だけで同じようにシャッフルし、そのままカードを配る。速度も精度も変わらず、配札位置の誤差すらほとんどない。シュタイナーの眉が僅かに動いた。「左利きなのか」「
賭場には、現金を積み上げた華やかさがなかった。都内湾岸部の外資系ホテル、その最上階からさらに専用エレベーターで下った地下区画には、看板も受付表示もなく、黒い扉の前に立つ警備員だけが入場者の資格を確認していた。玲は凌臣の半歩後ろを歩きながら、廊下の監視カメラの位置、警備員の利き手、腰の膨らみから推測できる携行武器まで順に記憶していく。ここを運営しているのは燈城会と長く取引のある欧州系物流企業だったが、裏では金融、海運、武器、薬物の仲介まで扱っており、賭場も単なる娯楽施設ではなかった。入場時に渡された黒革のケースを開くと、中には通常のチップではなく、権利証を電子化した薄型プレートが並んでいた。現金だけではない。上場企業株式、非上場会社の持分、社債、港湾倉庫の優先使用権、貨物船の所有権、投資ファンドの受益権まで、法的な名義移転を可能にする書類が事前に信託会社へ預けられている。勝負が確定すれば、翌営業日にそれらが動く仕組みだった。玲はケースを見下ろしながら、軽く眉を上げた。「趣味が悪いですね」隣を歩く凌臣が煙草を咥えたまま横目を寄越す。「賭場で善趣味求めんな」「現金だけならまだ分かりますけど、港の倉庫まで賭ける人間の気が知れません」「お前がそれ言うか?」「俺はまだ何も賭けてませんよ」周囲には日本語を理解する者が少なく、さらに凌臣と玲の座席周辺には専属警備以外ほとんど人が寄らない。玲も人前で使う《玻名城澪》の「僕」ではなく、自然に「俺」へ戻っていた。潜入先でありながら、凌臣と2人きりに近い状況では、この切り替えがいつしか当たり前になっている。玲自身、それがいつから始まったのか正確には覚えていなかった。今夜の目的は賭博そのものではなかった。燈城会が東南アジアで共同利用している海運ルートについて、取引相手のヴァルター・シュタイナーと条件を更新する必要があり、その交渉場所として相手側が賭場を指定してきたのだ。シュタイナーは60歳前後の大柄なβで、表向きは物流企業の会長だが、港湾労組、保険会社、複数国の税関関係者へ強い影響力を持つ。凌臣とは10年以上の付き合いがあり、互いに信用しすぎない程度には相手を知っていた。「新しい倉庫使用料は18%上げる」シュタイナーがカードを配らせながら告げた。卓上では既に数億円相当の権利が動いているが、凌臣の顔色は変わらない。煙草
廊下の向こうで、凌臣の足が止まった。玲はその瞬間、自分の身体から何かが漏れたのだと悟った。燈城会本邸の午後は来客も多く、廊下には組員が数人行き交っている。誰も振り返らない。傍を通った若い組員も、資料を抱えた事務方も、何の異変も感じていない顔をしていた。それなのに20メートル近く離れた場所にいた凌臣だけが、煙草を口元へ運びかけた姿勢のまま動きを止めている。玲は腕時計へ視線を落とした。予定日まではまだ2日ある。今朝も高濃度の抑制薬を服用し、昼には追加の遮断剤も使った。熱もない。手の震えもない。心拍も普段とほとんど変わらない。それでも、身体の内側には数時間前から微かな重さがあり、薬で押し込めたはずのΩ特有の感覚が薄い膜の向こうで蠢いていた。「澪」低い声が廊下を渡った。「はい、組長」玲はすぐに顔を上げた。公の場で使う声と表情を崩さない。凌臣は周囲へ何も説明せず、指に挟んだ煙草を灰皿へ押しつけると、顎だけで奥の部屋を示した。「来い」「承知しました」玲が歩き出すと、組員たちは誰も不思議そうな顔をしなかった。組長が澪を呼びつけることなど日常の一部だ。だが玲にとって、その数歩は妙に長く感じられた。凌臣へ近づくほど、ほとんど消していたはずの匂いが鮮明になる。焦がした檜、血を思わせる乾いた鉄、熱を持った樹脂。4年前から変わらない、玲の神経を理屈ごと乱すαの匂いだった。最初にそれを嗅いだ日のことを、玲は今でも細部まで覚えている。4年前、まだ《玻名城澪》という名前が燈城会の誰にも馴染んでいなかった頃、玲は本邸ではなく都内の会員制ホテルへ呼ばれていた。警察庁が何年もかけて作った身分は既に完成していた。大学で研究と講義を続ける若い学術畑の男。資産管理と数字に強く、裏社会との接点は薄いが、ある企業の粉飾を見抜いたことで燈城会側の関係者へ接触したという筋書き。戸籍も学歴も納税記録も研究実績も、調べられる限り破綻しないよう積み上げてある。それでも、絹笠凌臣本人の前へ立つ瞬間だけは別だった。日本最大の極道組織を率いる男は、部下から上がった書類だけで人を信用するほど甘くない。玲はホテルの個室へ案内されるまでに、廊下の防犯カメラ4台、非常口2か所、警備役と思われる男7人の配置を記憶していた。もし身元を疑われ、その場で拘束された場合に使える脱出経路も3つ考えていた。扉が開く。ま
男が帽子を脱いだ瞬間、玲はその裏地へ1度だけ目をやった。燈城会本邸の応接間には、午後の薄い光が障子越しに差し込み、黒檀の卓へ淡い影を落としている。向かいに座った男は、自らを欧州系慈善財団《アルベリオ財団》の日本代理人、クラウス・ベルンハルトと名乗った。年齢は50代半ばほど、濃紺のスーツに絹のネクタイ、腕には古いパテック・フィリップらしき時計を巻いている。髪は銀色を丁寧に撫でつけ、物腰も穏やかで、少なくとも表面だけを見れば長く上流階級に身を置いてきた人物に見えた。凌臣は男の経歴を質問しなかった。既に下調べはしているはずなのに、あえて確かめることもせず、煙草を指に挟んだまま相手の話を聞いている。その右後ろに立つ玲にも、何も指示を出さない。ただそこに置いているだけだった。それがむしろ玲には分かりやすい。見ろ、ということだ。玲はこの役目を説明されたことがない。最初の頃こそ「何か分かったら言え」と命じられたが、今では凌臣が会談相手を玲の視界へ入れるだけで十分になっていた。相手がどの手で名刺を出すか、椅子へ座る時にどちらの脚を庇うか、身につけた品が本人の経歴と矛盾しないかを、玲は会話と同時に拾っていく。凌臣も途中で横顔を確認することはあっても、会談の最中に答えを求めない。玲が本当に危険を察した時だけ先に動くことを、4年の間に覚えていた。男は日本国内での医療支援事業を拡大するため、燈城会傘下の物流網を使いたいのだと説明した。財団は3代にわたり欧州の資産家一族が運営し、戦後から慈善事業へ莫大な資金を投じてきたという。口調には無駄がなく、日本語にも不自然な訛りがない。資料も整っており、財団の設立年、寄付実績、理事名簿、海外拠点の一覧まで用意されていた。「私の家は、代々資産の運用と慈善活動を両立してきました。祖父の代から、日本との縁も深いのです」男はそう言って微笑み、卓上の紅茶へ手を伸ばした。その動きで袖口が数センチ上がり、時計の文字盤がよく見える。玲は視線を止めたのは1秒にも満たない。それでも、針の形、インデックスの焼け、ケースの厚み、ラグの磨耗、ブレスレットの接続部分まで十分だった。話の途中で、男は暑いと言って帽子を脱いだ。濃い灰色のフェルトハットで、内側にはロンドンの老舗帽子店《ハロウェイ&クレイン》の金箔ロゴが入っている。卓の端へ置く際、裏地が僅かにめくれ、汗止め