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第5話 運命の番

مؤلف: なつめ
last update تاريخ النشر: 2026-08-24 15:02:57

廊下の向こうで、凌臣の足が止まった。

玲はその瞬間、自分の身体から何かが漏れたのだと悟った。燈城会本邸の午後は来客も多く、廊下には組員が数人行き交っている。誰も振り返らない。傍を通った若い組員も、資料を抱えた事務方も、何の異変も感じていない顔をしていた。それなのに20メートル近く離れた場所にいた凌臣だけが、煙草を口元へ運びかけた姿勢のまま動きを止めている。

玲は腕時計へ視線を落とした。予定日まではまだ2日ある。今朝も高濃度の抑制薬を服用し、昼には追加の遮断剤も使った。熱もない。手の震えもない。心拍も普段とほとんど変わらない。それでも、身体の内側には数時間前から微かな重さがあり、薬で押し込めたはずのΩ特有の感覚が薄い膜の向こうで蠢いていた。

「澪」

低い声が廊下を渡った。

「はい、組長」

玲はすぐに顔を上げた。公の場で使う声と表情を崩さない。凌臣は周囲へ何も説明せず、指に挟んだ煙草を灰皿へ押しつけると、顎だけで奥の部屋を示した。

「来い」

「承知しました」

玲が歩き出すと、組員たちは誰も不思議そうな顔をしなかった。組長が澪を呼びつけることなど日常の一部だ。だが玲にとって、その数歩は妙に長く感じられた。凌臣へ近づくほど、ほとんど消していたはずの匂いが鮮明になる。焦がした檜、血を思わせる乾いた鉄、熱を持った樹脂。4年前から変わらない、玲の神経を理屈ごと乱すαの匂いだった。

最初にそれを嗅いだ日のことを、玲は今でも細部まで覚えている。

4年前、まだ《玻名城澪》という名前が燈城会の誰にも馴染んでいなかった頃、玲は本邸ではなく都内の会員制ホテルへ呼ばれていた。警察庁が何年もかけて作った身分は既に完成していた。大学で研究と講義を続ける若い学術畑の男。資産管理と数字に強く、裏社会との接点は薄いが、ある企業の粉飾を見抜いたことで燈城会側の関係者へ接触したという筋書き。戸籍も学歴も納税記録も研究実績も、調べられる限り破綻しないよう積み上げてある。

それでも、絹笠凌臣本人の前へ立つ瞬間だけは別だった。日本最大の極道組織を率いる男は、部下から上がった書類だけで人を信用するほど甘くない。玲はホテルの個室へ案内されるまでに、廊下の防犯カメラ4台、非常口2か所、警備役と思われる男7人の配置を記憶していた。もし身元を疑われ、その場で拘束された場合に使える脱出経路も3つ考えていた。

扉が開く。

まず見えたのは、大きすぎる肩だった。黒いスーツの背中だけで、部屋の空気が重く見える。193cm、100kg。事前資料で何度も見た数字だったが、実物の圧迫感は写真からでは分からない。絹笠凌臣は窓際のソファへ座り、片手に煙草を持ったまま玲を見ようともしなかった。

「玻名城澪です」

玲は用意してきた声で名乗った。

「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

凌臣がゆっくり顔を上げる。その瞬間だった。

匂いがした。

煙草でも、ホテルの香料でもない。焦がした檜のような乾いた香りが最初に来て、その奥へ鉄と樹脂の熱が重なる。嗅いだことがないのに、玲の身体だけは知っていた。背骨の内側を冷たいものが一気に走り、呼吸が浅くなる。抑制薬を飲んでいるはずなのに、項の皮膚が熱を持ち、腹の奥が強く収縮した。

頭では理解を拒んだ。

あり得ない。

潜入対象だ。極道の組長だ。しかも玲が長年追ってきた燈城会の頂点に立つ一族の男である。相手の経歴も犯罪歴も、家族関係も知っている。こんな人間へ身体が反応する理由など、任務上あってはならない。

それでも、本能は一切の説明を必要としなかった。

運命の番。

言葉が浮かんだというより、身体の方から答えを押しつけられた感覚だった。玲は奥歯を噛み、指先へ力が入らないよう意識した。ここで視線を逸らせば不審に思われる。心拍を落とし、呼吸を一定へ戻し、表情筋を動かさない。警察官として身につけた訓練を総動員して、玻名城澪の顔を維持する。

だが凌臣もまた、同じ瞬間に動きを止めていた。

煙草を挟んだ指が口元の手前で止まり、黒に近い焦茶の瞳が玲を真正面から捉える。それまで値踏みする対象程度にしか見ていなかったはずの目が、初めて焦点を結んだように鋭くなる。数秒間、室内から時計の音以外が消えた。凌臣の鼻翼が僅かに動いたのを、玲は見逃さなかった。

「……Ωか」

最初に出た言葉がそれだった。

「はい」

「匂い消してやがるな」

「仕事上、不要ですので」

玲がそう答えると、凌臣は煙草を灰皿へ押しつけた。立ち上がっただけで視界が大きく塞がれる。20cmの身長差以上に、骨格と重量の違いが近距離では露骨だった。玲は後退しなかったが、身体の方は相手が1歩近づくたび勝手に緊張を解こうとする。

凌臣は玲の目の前で止まり、顔を覗き込むように顎を下げた。

「お前、分かってんのか」

何を、と聞く必要はなかった。

「何のことでしょう」

「白々しいな」

「初対面の相手に分かったような顔をする趣味がありませんので」

凌臣の眉が僅かに動いた。怒るかと思ったが、むしろ口元へ薄い笑みが浮かんだ。その目だけは笑っていない。

「面白ぇ」

玲にとっては、少しも面白くなかった。

運命の番という概念は、医学的にも社会制度上も存在する。相性の極端に高いαとΩが出会った際、フェロモン受容が通常とは比較にならないほど強く結びつき、接触や匂いだけで互いの自律神経へ影響する。番契約を結べば発情期の症状が軽減し、精神的な安定も得やすい。一方で、相手を失った時の反動も大きく、永続的な結びつきを前提とする関係だった。

だからこそ、潜入捜査官が捜査対象と結ぶ選択肢など最初から存在しない。

玲はそう整理した。相手が誰であろうと同じだ。身体が勝手に反応したからといって、自分の判断まで明け渡す必要はない。むしろこの反応を利用できるなら利用すればいい。凌臣側にも同じ反応があるなら、近づくための材料になる。

その場でそう結論づけた自分を、4年後の玲は時々、随分と性格が悪いと思う。

「何笑ってんだ」

低い声で現在へ引き戻された。

玲は奥の小部屋へ入ったところだった。扉が閉まると同時に、凌臣の手が鍵を掛ける。人目がなくなったことで、玲は公の仮面を少しだけ外した。

「笑ってませんよ」

「口元が動いてた」

「4年前のこと思い出してただけです」

「俺と会った時か」

玲は答えず、代わりにジャケットの内ポケットから薬のケースを取り出した。今日飲んだ分を確認する。残数に間違いはない。製造番号も自分が管理しているものと一致している。

凌臣はそれを見て眉を寄せた。

「薬切れてんだろ」

「切れてません」

「じゃあ何で匂う」

「予定日が少しずれただけでしょう。組の連中は誰も気づいてません」

「俺には分かる」

その一言に、玲の指が止まった。

分かる。そうなのだ。抑制薬で消しても、遮断剤で皮膚から出る量を抑えても、凌臣だけは気づく。玲自身も同じだった。凌臣が廊下の反対側にいても、機嫌が悪くフェロモンが僅かに強くなれば分かる。別のαが同じことをしても気にも留めないのに、この男の匂いだけは意識へ割り込んでくる。

玲のフェロモンは、普段ほとんど外へ出ない。だが今は薬で押さえ切れなかった甘さが、皮膚の近くに薄く漂っていた。雨に濡れた白檀、冷えた白桃、月下香。本人には自分の匂いなど不快なだけだが、凌臣の視線が項へ落ちたことで、そこから漏れているのだと分かる。

「追加で飲みます」

玲が薬を取り出そうとすると、凌臣の手が先に伸び、ケースごと取り上げた。

「今日はもう飲んでんだろ」

「昼に1回だけです」

「朝も飲んだ」

「規定範囲です」

「お前の規定は信用ならねぇ」

「返してください」

玲が手を伸ばしても、193cmの男が腕を上げれば届かない。子ども扱いされているようで腹が立ち、玲は眉を寄せた。

「凌臣さん」

「駄目だ」

「まだ仕事残ってるんですよ」

「知るか」

「知ってください。半分くらい凌臣さんの仕事でしょう」

凌臣は薬を返さないまま、玲の肩を押してソファへ座らせた。乱暴な動作だったが、いつものように力加減だけは妙に正確だ。玲が立ち上がろうとした時、室内の空気が変わった。

焦がした檜の匂いが濃くなる。

続いて鉄と熱い樹脂。凌臣のフェロモンが、狭い部屋へゆっくり広がった。意図的だと気づいた瞬間、玲は舌打ちしそうになった。

身体が先に負けた。

肩へ入っていた力が抜け、浅かった呼吸が勝手に深くなる。腹の奥にあった鈍い疼きが少しずつ引き、熱を持っていた項の皮膚まで落ち着いていく。高濃度の薬を追加するより速い。さっきまで張り詰めていた神経が、凌臣の匂いを吸い込むたび強制的に静められていく。

玲はソファへ深く凭れ、額へ手を当てた。

「……これ嫌いなんですよね」

凌臣が正面に立ったまま見下ろす。

「何が」

「凌臣さんの匂いが薬より効くことです」

「効くならいいだろ」

「よくないです。俺の身体のくせに、俺の判断より貴方を優先してるみたいで腹立つんですよ」

凌臣は少し黙った。玲の言葉を笑うかと思ったが、そうはしなかった。煙草へ手を伸ばしかけ、匂いが混ざるのを嫌ったのか途中でやめる。

「番になりゃ、もっと楽になる」

玲の目が上がった。

それは2人とも知っている。番契約を結べば、玲の重い発情期は大幅に安定する可能性が高い。抑制薬の量も減らせるし、凌臣側の過剰な反応も落ち着く。医学的な利益だけ並べれば、結ばない理由を探す方が難しい。

だが玲はすぐに視線を逸らした。

「なりませんよ」

「分かってる」

あまりにも早い返答だった。

玲の胸の奥へ、説明しにくい小さな痛みが走る。自分から拒んだくせに、凌臣が即座に同意すると面白くない。そんな矛盾した感情を認める気はなかった。

「なら言わないでください」

「事実を言っただけだ」

「凌臣さん、運命とか大嫌いでしょう」

「嫌いだな」

凌臣の声には迷いがなかった。他人に人生を決められることを何より嫌う男だ。血筋でも、組でも、本能でも同じなのだろう。運命だから番になれと言われて従うくらいなら、身体がどれほど求めても拒絶する。その頑固さは玲にも理解できた。

「俺も無理ですしね」

「俺と番になるのが、そんなに嫌か」

その言葉に、玲の呼吸が一瞬止まったような錯覚を覚えた。嫌だから拒んでいるわけではない。むしろ問題は逆で、潜入対象へ向けるには深くなりすぎた感情を、番契約という形で固定してしまうことが怖かった。契約を結べば、任務が終わっても身体は凌臣を求め続ける。そんな未来を受け入れる資格が自分にあるとは思えなかった。

「俺にも俺の事情があります」

「その事情は俺より大事か」

低い声だった。

玲は答えに詰まった。任務なら大事だ。警察官としての人生も、両親の死の真相を追うことも、4年間積み重ねた潜入も、捨てられるものではない。それなのに、比較を求められた瞬間、即答できなかった。

凌臣はそれ以上聞かなかった。玲の返事を待つ代わりに、取り上げた薬のケースを自分のポケットへ入れる。

「今日は飲むな」

「返してくださいって」

「ここにいろ」

「仕事は?」

「朔にやらせる」

「若頭を便利屋扱いしないでください」

「俺が会長だ。俺が決める」

玲は呆れて息を吐いた。身体はもうかなり楽になっている。凌臣のフェロモンが効いている事実が、なおさら腹立たしい。

4年前、初対面の瞬間に身体が勝手に選んだ男。玲はそれを任務へ利用し、凌臣はそれを所有の理由へ置き換えた。番にはならない。運命に従わない。その結論だけは、出会った時から2人とも変えていない。

それなのに、玲が他のαへ近づけば凌臣は不機嫌になり、凌臣が自分をただの犬として扱えば玲の胸の奥には説明できない棘が残る。合理的な理由で結ばないと決めたはずなのに、その合理性を確かめるたび、どこかが少しずつ傷ついていた。

凌臣が隣へ腰を下ろす。大きな身体から流れる熱と匂いに包まれ、玲は目を閉じた。薬では得られない安堵が身体へ広がることが、どうしようもなく悔しい。

「寝ろ」

「ここで?」

「俺がいる方が楽なんだろ」

玲は目を開け、隣の男を睨んだ。

「そういう言い方するから嫌なんですよ」

「事実だ」

「本当に可愛げないですね」

「お前に言われたくねぇ」

凌臣が低く笑った。その笑い声を聞きながら、玲はもう1度目を閉じる。番にならないという結論は変わらない。変えられないはずだった。

けれど意識が沈む直前、玲の指先は無意識に凌臣のスーツの袖を掴んでいた。気づいた時には遅く、離そうとした指の上へ大きな手が重なる。凌臣は何も言わず、その手を退けもしなかった。

玲もまた、掴んだ理由を説明しなかった。

2人の間には、運命などという言葉だけでは片づけられない沈黙が残った。

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